2017年11月13日(月) ◆生徒たちがズルやカンニングをする場合、それは生徒たちが学ぶことを重んじる以上に、学校制度が成績を重んじているせいである。

こんにちは、北浜にある猫のひたいのように小さな店。クントコロマンサ(旧名:画廊喫茶フレイムハウス)を版画家の柿坂万作さんと共同経営する、ヒゲの男こと阿守のブログです。


さて、昨日のこと。


ヒゲの男は店に行く。今日は夕方より次の日曜日に演奏をする古池のおじきが店にやってくるのだ。古池のおじきというのはギター弾きであり、巧妙なギターを弾く。ヒゲの男とは全然違うタイプのギタリストであり、この二人が合わさればどういった音楽になるのだろうと個人的な興味も尽きない。といっても、ここでスタンダードのジャズ演奏をしたのでは何も面白くもないし、さらにいえばヒゲの男はジャズが弾けない。


そこで浮かんだアイデアがある、ジャズ畑の古池のおじきにヒゲの知人であるギタリスト、真鍋という男の作曲したものを原曲を聴かせずに演奏してみたらどうかということだ。真鍋という男が作る曲は道筋がきちんとある、つまりはその道筋に沿って歩行すれば(走ってもいいのだが)、おのずとゴールに辿り着けるようになっているのだ。これがヒゲの男の曲ではそうはいかない、ヒゲの男は道筋を作っていない、ぽんとスポンジケーキだけ作って渡し、あとのデコレーションは自分自身でしてくれという勝手気ままなものだ。


日曜日には真鍋という男の曲だけでなく、ヒゲの男の曲も一緒にやってみる。どちらにしても原曲を知らない古池のおじきが、どのように対処するのかとても楽しみなイベントとなろう。


店の階段を昇ると、すでに古池のおじきがギターを傍らに置きビールをあおっている。ヒゲの男もギターを取り出して、こんな感じの曲があるのだと説明する。古池のおじきは、ヒゲの男がギターのどの部分(ポジション)を弾いているのかのぞきこむ。のぞきこむことで、この辺の音階を弾いているのかとギタリストならば判断材料になるのだが、あいにくとヒゲのギターは特殊な音列になっており、なんらの参考にならない。視覚的ヒントは一切ないのだ。


一般的なギターのチューニングは太いほうから、


E(ミ) A(ラ) D(レ) G(ソ) B(シ) E(ミ)


ところが、ヒゲの男が使うチューニングにいたっては、


E(ミ) C(ド) D(レ) G(ソ) A(ラ) B(シ)


このようになっている。6弦中で3つの音が違うのである。半分一緒なのだから四捨五入でなんとでもなるのではないかといわれる諸氏もおられるかも知れないが、そんなに簡単な問題ではないのだ。


互いのギターの音色を確認して、この日はヒゲの男の小品をちらりと合奏してみることで終わった。譜面も渡さずに口頭でああだこうだと説明するヒゲの男、こんな伝統芸能の教えのようなことに付き合ったくれた古池のおじきには感謝しかない。


二人の男がギターにいそしむ頃、万作は厨房からステージに移動して、納期が迫っている肖像画を描く仕事をしている。音と絵画は同時に仕事をしあっても共存でき、尚且つ互いを打ち消し合わないものだなと再認識する。聴覚から入ってくる情報と、視覚から入ってくる情報は一瞬にして脳に伝わり、そこでどのような像を結ぶのであろうか、それは人それぞれの経験や趣向が如実に反映されるのであろう。


しばらくすると、ハイタッチ冷泉がいちげんさんの二人を連れてやってくる。聞くところによると、この二人は学生時代の学友であり、互いにインターンで冷泉の会社に来てからの知遇になるとのこと。それがかれこれ数年前の話しになるそうだが、そのときから酒席での腹の殴り合いは変わっていないとのことをヒゲの男に教えてくれた。


二人のうちの一人、教育熱心な男としておこう。この男は一流企業に就職してすぐにやめ、自分で起業したのだ。扱う商材は教育。「今の日本の学校教育は社会の一般的な実用性からかけ離れてしまっている」と警鐘をならす。これについてはもっともなことだ、ヒゲの男はそれについてもろ手を挙げて同感である。役に立つと信じさせられて、ちっとも役に立たない教育にどれだけ人生の無駄な時間を費やしたものか。


ヒゲの男に関していえば、学校を辞してからやっと教育の意味がわかった。自分に丸っきり学がないことを都会に出て初めて自覚して恥じた。田舎では学がないということで恥じるより、学校を辞したということの世間体で恥じることのほうが大きかったので、それは前者とは比べものにならぬほど些細でどうでもいい問題だ。他者からの評価に甘んじて生きるより、自分で自分の非力を自覚することのほうが悲劇なのである。だから、とにかく勉強した。大人になって勉強した。


だからといって学校を辞めるがいいとはちっとも思わない、学びたいことを正確に持っている人間が惜しみなく学べる場所がもっとあって然るべきである。独学というものは費用は安く済むかも知れないが、危険な部分もある。独学で陥りやすいワナは、ある事象について自分にとって都合のいい考え方になってしまうことだ。ここの判断が甘くなると、結局、得られた知識は自己満足の悪臭を放つものになってしまう。


教育とは、よく噛むことだ。よく咀嚼すること、決してひけらかすことではない。その人間の内面へ無意識のうちに浸透して血肉となるものである。


教育熱心な男との話しをしながら、自分よりも干支がひとまわりほど違う人間とこうして教育について大いに語り合うことは嬉しさ以上に救われた気持ちにもなった。世の中がほんの少しだけ明るくなるような予感がする。ほんの線香花火ほどの明るさかも知れないが、線香花火ほど美しいものもない。オリンピックの聖火などは消えても別にどうでもいいのだが、こうした火はもっともっと広げて、託していきたいものである。


ヒゲの男が根城にする北浜には、適塾というものがある。福沢諭吉がよく学んだところとして有名なところだ。福沢翁ほど教育の重要さを説いて有名になった人もいないだろう。教育があるとないのでは雲泥の差があると、その必要性を十分に知らしめた。


今、ヒゲの男の財布には福沢諭吉は、いらっしゃらない。


いらっしゃらないのだ。


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by amori-siberiana | 2017-11-13 16:18 | 雑記 | Comments(0)


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